るまえびの事を言います。ではなぜ宝彩えびと言われるようになったのでしょう。
昭和の初めごろ、あのり漁村では一本釣りによる鯛釣りが盛んで、鯛釣りの餌を
確保するべく、的矢湾内でマグロ(小さい海老)引漁が行われていた。
マグロ引きの網を船内に引き上げると、沢山の車海老も含まれていましたが、
その頃伊勢志摩の太平洋側の小さな漁村では底刺し網による伊勢エビ漁が
中心であり、車エビを捕る習慣はありませんでした。
そこで、昭和の初めごろ、あのりの漁師である、片山重吉氏がこの車エビを
多く捕る漁法がないかと考え、試行錯誤の上考え出したのが、宝彩網という
絹のような細い糸を使用した背丈の短い底刺し網でした。この宝彩網を
使った漁が日本最初の車エビ漁だと言われています。
その後、あのり地方では、沢山の車エビが市場に水揚げされ、
漁村は活気づき現在に至っています。
特にあのりで捕れた車エビは宝彩網の名前から「宝彩エビ」
と呼ばれ、伊勢湾と黒潮の交わる海域で育つ為、他の車エビとは
違って、ひと回り大きく、甘味の多い美味な車エビとして人気があります。
●とらふぐの歴史●

のり地方におけるトラフグ漁は、底延縄(そこはえなわ)という
漁法で行われています。この漁法は、長さ数kmに及ぶ幹縄(みきなわ)
に千本以上の釣り針をつけてトラフグを釣る漁法です。
トラフグ漁は明治のころから行われていて、当時からあのりの漁師たちは
小型漁船で東は千葉県からあのり西は高知県の沖合いまでトラフグを
求めて出漁していました。

●年間水揚げ量●


のり地方では、昔からたくさんのトラフグが水揚げされていたわけでは
ありません。かつては1隻の漁船が1週間漁をして、数匹のトラフグを
水揚げする程度でした。しかし、漁師が自分たちで禁漁期間や
小さなフグを釣らないといったルールを作ったり、雅魚の放流を
行うなど努力を続けた結果、平成元年には160トンもの水揚げが
出来るようになりました。水揚げされたトラフグは特に下関及び
関西面に出荷されています。